公民館のしあさって 刊行直前・スペシャル対談
日程:2021.06.22.
会場:東京大学・牧野研究室
ゲスト:牧野篤 (東京大学大学院教育学研究科・教授)、西山佳孝(株式会社タウンキッチン・取締役 他)
進行:熊井晃史
どういう前提に立つと、人はのびのびできるのか?
先日の沖縄の繁多川公民館でのトークイベントもありがとうございました。いよいよ、「公民館のしあさって」の本づくりも大詰めです。今日は、書籍に掲載する先生の写真を撮影しに研究室にお邪魔しましたが、それだけだとやっぱりもったいない。ということで、また改めて先生と雑談的にお話をしておきたいなと録音機材を片手にいそいそと参りました。
【 牧野先生 】
雑談って大事ですからね。
ありがとうございます。こないだ小学校の現場にいくことがありまして、そこでおもしろい取り組みがあったんですが、終わったあとの会議で、「それって再現性あるんですか?」という問いで片付けられてしまったことがありました。同じことをまたできないとダメというのは、一面では正しいような気もしますが、それだけだとどうも居心地が悪い気もして。新しい挑戦をしようという気も起こりづらくなったり、手も足も出ないような気にもなったります。再現性って、すごい言葉ですよね。
【 牧野先生 】
そうですね。昨今問題になっている気候変動なども、簡単にいうと再現性があったからこうなってしまったのではなくて、巨大な一回性だと見れば、取り返しのつかないことになっているのではないか、という話をちょうどこのあいだ関係者としていたところでした。
おお、また冒頭からなんかすごい。えーっと、どういうことですか?
【 牧野先生 】
一回起こってしまったのですから、取り返しがつかいないですよね。それを、自然科学の再現性の手法で、戻したり直すなりといわれても、それってむずかしいことなのではないでしょうか。というよりも、そもそも、再現性が依って立っている因果論的な考え方で、すべての原因がわかるわけではないのに、問題が解決するのでしょうか。さらに言うと、その一回性って何万年とも何億年とも考えられるようなタームで起こっていることですよね。それを私たちが知っている自然科学の方法論で直せるのでしょうか。
ああ、再現性というのは、科学の基本的な原則ということですよね。同じ手順を経れば、必ず同じ結果になるという。とはいえ、そもそも全く同じ手順というものはあるのか、現実では複雑な因果関係があるから結果が同じにならないのでは、というのもあるわけで。その意味では、常に物事が一期一会的な一回性があるのではないかと。
【 牧野先生 】
物事は一回性の積み重ねだと思ったほうが良いと思うのです。再現できると考えるのではなくて、一回しかないものが様々に重なった結果、いまのような状況になっていると考えるのです。例えば、見知らぬ人たち同士が話し合ったり議論したりすることのなかで、なんとなくお互いに分かりあえていくような感覚をもてる状態ってありますよね。そんなときって、そこには「今、この場は一回性だな」っていう感覚も背景にはあるはずです。そういう感覚を得ることを、ワークショップなどを繰り返しながら、やっていっていくとおもしろいと思います。つまり、一回性が重なっていまの状況になっているのだけれども、その背後には、この一回性を貫く何かがあって、それをもとに、一回性を重ねていくことで、いまの状況を改善することができると考えるのです。何か原因があって、その結果がある(因果論)から、その原因を取り除けば問題を解決できると考えるのではないのです。そもそも私たちは、社会というか誰かとの関係から生まれて、その社会の言葉を使っているのですが、そういうことで何かしらの共通項が、自分が意識する前からあるはずです。自分という存在も社会から生まれているし、自分が社会をつくっているし、みんなも社会から生まれて、社会をつくっているし、そこからまた自分も生まれているという関係を捉えることができると、みんなが「そうだ」と思えることを感じられるようになる。それは、「一般意志」というものと近いかもしれないけど、そういう感覚をもった子どもたちが、自然科学の手法も使いながら、なんとかこの社会を組み替えようとする。そうすることで変わってくるかもしれませんよね。気候変動の問題なんかも。
おー。それって、一回性のある固有な存在である自分と、再現性というか社会のなかの存在である自分というものの両方のバランスをとったり、行き来したりすることが大事ということですよね。これからの社会のためには、どちらかに偏ることのない人間像を描いていかないといけないという。
【 牧野先生 】
だから、その、なんといったらいいのでしょうね。社会の中の存在そのものも再現性があるわけではなくて、その都度の一回性の存在であって、それが重なって、自分があると考えるということです。はじめて会った人たちが合宿でもやりながら、いろんな問題を考えるようなワークショップを繰り返していくと、自分の言葉に自分で気づいていくようになるので、お互いがそういう関係に入っていくと、ぜんぜん違う道を歩いていた人たちが、なんとなくどこかで似ているよねとか、なんとなくこれ以上やっちゃまずいよねとか、なんとなくブレーキがかかるような状態になっていったりします。そこでは自分は自分なのだけれども、その自分は他人を自分の中に宿した自分になっていく、しかもそれは、その都度のかかわりから生まれてくる自分だから、再現性はない。でも、それが次々と起こってくることで、自分が新しくなっていくし、それは人との間を常につくりかえ続けることにつながっている。こういうことがわかってくると、現状を他者とのかかわりでよりよいカタチの一回性の積み重ねに組み換える筋道が見えてくるようになる。そういうことなのではないかと思うのです。
その、なんとなく・・・という感覚とか、それを共有できる関係性はとても大事な気がしますね。
【 牧野先生 】
そう。で、資本主義における資本増殖の価値化はそういったことを壊しますね。斉藤幸平さんの「人新世の「資本論」」は、とても売れているそうですね。若い世代の人たちが惹かれる気持ちもよく分かります。一方で、上の世代からすると、圧倒的な社会主義の洗礼を受けていることもあり、手放しで資本主義を否定すればいいという話にもならないようなのです。資本主義の次に、新たな別の主義を打ち立てて問題を解決するという、原因を取り除いて、結果を組み換えようということではなくて、これまでの資本主義でこうなってしまったから、これからも資本主義を使って、一回性を重ね続けることで、もっと違う社会を考えるという議論もやっていく必要があるのではないでしょうか。でも、それがなぜうまくいかないのかというと、そもそもの資本主義における人間観とか個人のとらえ方を変える必要があるのだけども、それがうまくいかないからなのではないかと思うのです。
おもしろいですね。それこそ、沖縄でのトークイベントでも出ていたキーワード「たまたま」の話がブワーッと思い出されます。社会基盤とは「たまたま」であるという。なんというか、あのときのお話を振り返ると、冒頭に牧野先生は、いきなり「私は、公民館の専門家ではありません」とおっしゃいましたよね。そんなカウンターパンチがおもしろいと感じていました。というのも、別に公民館に詳しくなることが目的ではないというか、公民館を通していったい何なのかという次元の話をしたいがための、ある種の戦略だったというか。で、その「たまたま」ということをずーっと反芻しているんですが、たまたま居合わせた人間とうまくやっていく技術というか、ま、ある意味でアートといってもいいかもしれませんが、やっぱりその技術が重要なんじゃないかということが根底にあると思えてきます。いまのお話って、つまりそういうことですよね。たまたま居合わせた人たちとどうにかうまくやるみたいなことで。公民館もそういうところがあると思うんですが。
自分の中に社会があって、社会の中に自分がいる
【 牧野先生 】
沖縄の公民館で、わたしたちがまさにたまたま居合わせてね。ところで、最近、ジャン=ジャック・ルソーにハマってるんですよ。
おお、「一般意志」という言葉の出典元ですね!ルソーって、民主主義のコンセプトをつくったような人でもありつつ、一方で音楽家でもあったり、さらには露出狂だったりしたという話も聞いたことがあります。
【 牧野先生 】
ルソーって、多才だし、魅力的ですけど、変な人ですよね。自分として100%自由に生きたいのに、誰かにかまって欲しくてしかたがないという部分を持っていたので、自由と平等の関係に悩んだ人でもありますね。しかも、自分のことを大事にしてくれる人が居たとすると、最初はありがたいと思っていても、途中から、こんなにもよくしてくれるはずがない、下心があるに違いないと疑いはじめるという。
癖が強いですね。確か、誰かに匿われていましたよね?
【 牧野先生 】
デイヴィッド・ヒュームですね。ヒュームはルソーの面倒を見てやるのですが、ルソーは途中からヒュームの好意を疑い始めて、悪口を書きはじめたりしてしまうのです。そんな彼がいうには、ホッブスの言う、放っておくと人間が戦争状態になるというのが自然状態なのではなくて、もともと人間は、他人にあまり関心をもたず自分で満足して生きていた。でも、その後、他人と出会うことによって、自分を人と比べたり、嫉妬心が生まれたりして、不平等が起こってきたと言っています。彼は、向上心も人との関係で生まれるもので、人よりも上に立とうとする気持ちだから、よくないことだとまでいっています。でも、そういう人間ではあっても、目の前で人が苦しい思いをするのを放っておけないだろうと、相手の苦しみの中に自分の苦しみを見てしまうのではないか。憐れみの情や憐憫の情はもともと自然状態にもあるのだけれど、人々が社会をつくり、そこに生きるようになった結果、嫉妬や競争心がその感情を抑圧をしてしまったのだと言っているのです。ルソーは、この憐れみの情や憐憫の感情のようなものを、人々がとくに意識しなくてもごく自然に共通に持ってしまうものだととらえて、そこから「一般意志」という考え方を発展させたのだと思います。
それ、ルソーが言ってるんですか?
【 牧野先生 】
ええ、ルソーが言ってます。憐れみのようなものを基本に、お互いが気をつかい合うような関係にもっていけば、相手の中に自分の痛みを感じることができるだろうと、それが一般意志の基本なのです。そうなってくれば、自分のことを自由に発言したり、やりたいということをやっても、それは他の人々の感情や思い、つまり社会を内面化していったりやったりしている話なので、そこに本当の意味での自由が実現する、こんなに自由なことはないといっています。
突き抜けた主観は客観に至る、みたいなそんなニュアンスですね。
【 牧野先生 】
そうそう。ヘーゲルは、「即自性」、「対他性」、「対自性」なんて言ったりしています。「即自」というのは他人に興味をもたずに自分だけで満足していることで、「対他」というのは相手のことを慮って、ある程度相手のことを考えて、相手の中に自分を見出しつつ、相手が苦しんでいるのを自分ごとで生きることです。「対自」というのは、そこから自分に戻ってきて、自分を社会の中から見ることができるということです。ルソーは、そこから先のことをいっていて、他者が居ようが居まいが、自分の中には社会があるので、自分で言ったことが実は社会に基づいていっていることになって、誰もが受け入れられることとなるから、こんな自由な話はないと言うわけです。
プライベートパブリックですね。それが目指すべき本来の自由のあり方なわけですね。
【 牧野先生 】
ルソーは第二の自然といったりしてるのだけど、もともと自然状態というのは、他人が居なくても平気でひとりで満足している状態だったのが、たまたま社会で他人と出会ってしまうことによって、嫉妬心が生まれたり、比べようとしたり、上に行こうとしたりする、と。彼はだから努力してよくなるというのは悪いことだと言っていたりします。他人より上に立とうとすることだから。つまり、努力してよくなろうとする能力を人間が持ってしまっていることは不幸なことだといっています。だから発達とかはしない方がいいと。それで、他者を内面化したカタチで自分のことを表出できるような関係であること、それこそが真の平等だし自由だという。こういう関係にあることを、第二の自然といったりしています。
発達はしない方がいい、と。ルソーって、教育における古典的名著と言われる「エミール」を書いた人ですよね?
【 牧野先生 】
そう。「エミール」では、だからそういう風にならない子どもをつくろうとする話なのです。
へー!発達、発達って直線的に成長しようぜ、できることを増やしていこうぜ、というところじゃない目線で教育や学びをみたってことですか?
【 牧野先生 】
めちゃくちゃな生活していたルソーという人が、あんなこというのはおかしいと思うんだけど、自分が若者を教育するのであれば、自然状態の中の他人への憐憫の情を持って一般意志を体現できる子どもに育てたいと、そういう思いで、エミールは書かれてます。
人を思い通りにする、そんな考え方から抜けることができるのか
ほほー。憐れみの情が機能するためにも、社会の抑圧から解放しようということですよね。ちなみに、なんで牧野先生はルソーに興味を持ってるんですか?
【 牧野先生 】
今、ちょっと本をつくってるからです。発達とか、教育がもっている操作可能性みたいなもの、人間は教えればこうなるんだ、みたいなこと、それはおかしいよねって言おうと思って。今は高齢者にまでも、発達課題というものがあって、その課題をクリアすることによって、よりよく生きられるのだと、なんだかあきれるようなことがいわれているのです。そういう人がいてもいいけど、そうじゃない人もいっぱいいるので、高齢期になってまで発達課題をクリアしなければならないなんて、いわれたくないじゃないですか。発達課題をクリアできない高齢者は、ダメな高齢者だ。子どもの発達障害のように、高齢者にも発達障害がある。認知症になった人はダメな高齢者、それは言い換えればダメな人間なのだという論理を導いてしまうことにはなりはしないでしょうか。それはいいかえれば、発達課題をクリアできるのが普通の人間であって、そうではない人は「普通ではない」という、子どもを含めたすべての人間に対して、そういう見方をあてはめることになってしまいはしないだろうか。そういう疑問があります。
ドラゴンボールみたいになってきましたね。永遠に強くなり続けなければいけないみたいな。操作可能性って、人を思い通りにしようということですもんね。思い通りにいかないと、失敗になってしまう。
【 牧野先生 】
だから、そういうのがおかしいと本に書こうと思っています。発達しなくても、日々が楽しくなってくるあり方ってあるのじゃないかと思います。記憶を頼りに自我を一貫させるっていうのは、あんまり意味がないという世界もありますから。そもそも自我は一貫していなければならないものなのでしょうか。
そういう風にした方が、気が楽ですね。
【 牧野先生 】
そうそう。だから高齢者との付き合い方も、親が認知症になって、子どもが親が自分のことを忘れちゃうといって悲しむよりも、あの人、新しい人になっていっちゃったんだと、組み替えて考える方が楽しいかもしれませんよね。その方がお互い楽ですよ。赤瀬川原平の「老人力」なんかがいい例だと思います。できなくなることが悪いことではなくて、できなくなる力がついてきたんだと思えば見え方は変わりますね。そんなことを考えていくと、教育学でやっていることっていったい何だろうと思いはじめてきます。改めて、マルクスの資本論を読んでみたのです。そこでの資本の増殖過程の話と人間の発達過程ってほとんど同じ議論なのです。それを書いてとりえあず原稿にしました。操作可能性を目指す教育学は実は資本増殖の論理に絡みつかれていると、パンチを食らわせるために(笑。その次に、ルソーの一般意志の話と言語の話で、「わたし」ってどうやって生まれてきているのかということを書きたいと思って、今、読み込んでいるところです。そこでも、一回性というものがテーマになってくると思います。
居酒屋の方が公民館的?
めちゃめちゃ気になります!そういえば、本を仕上げていく中で、メンバーで公民館のしあさってを考える話し合いをしていたんです。で、ミギードさんが日本の公民館に期待をして来日したけど、居酒屋の方が公民館っぽいと感じたという話をしていたんですね。おーーーと思って、聞いていました。人間と人間のふれあいや人間性というものが、居酒屋の方があるのではないかと。
【 牧野先生 】
公民館より居酒屋というのは、そう思いますね。長野の松本には、35館ぐらい公民館があって、分館と呼ばれている約480館ぐらいのいわゆる自治公民館があります。そこのいくつかは居酒屋公民館をやっていますよ。若い人たちも含めて住民たちが、週に何回かはお酒とつまみをもって、公民館に集まっていきます。公民館が居酒屋化するわけです。そんな中で、自然にいろんなことがはじまっていくのをよく見ます。飯田も、公民館活動が活発でおもしろいのですが、実は焼肉屋が対人口比で日本一なのです。居酒屋や焼肉屋で盛り上がって、公民館でちょっとまじめに話を進めているという関係なのだと思います。下準備はぜんぶ焼肉屋で済ませておくからこそ、公民館で地域を動かしていけるということなのでしょうね。
あー、公民館を街の生態系の1つとしてみるのがとても新鮮です。ちなみに、そういうお酒の集まりみたいな話になってきたときに、そこには男だけの集まりみたいな風景を想像してしまうんですが。
【 牧野先生 】
女の人もけっこう居ますよ。飯田は女の人もフラットに関わっていますね。飯田も分館といって、自治公民館がたくさんあるのですが、例えば役員がみんな男の場合でも、裏でおかあちゃんがぜんぶコントロールしてますよ。
リアルだなー。
牧野先生はもとバックパッカー
話は少し変わりますが、牧野先生はかつてバックパッカーのような感じになり、シルクロードの方にもいかれたという経験がありますよね。そんな流浪感の中で、コロコロコロコローと転がって、「あれ、俺なんか東京大学にきづいたら居るけど」みたいな状況になっているとおっしゃっていたじゃないですか。「たまたま」や今日の「一回性」の話とも絡めて、聞いてみたいと思っちゃったんですが、どうでしょうか?そういう話もリアルな話だなと思っていまして。
【 牧野先生 】
ある意味では、私の人生は、人に拾ってもらってここまでくることができたので、感謝はしていますし、運がよかったんだろうなと思っています。
自分でここに行きたいといって行ったことはないのです。以前、幸運の女神に後ろ髪はないという話をしましたが、そういうところで声をかけられて、行きますというのは自分の意志でいってるんだけど、だけど、自分から東大に行きたいから何とかしてくださいと言っているのではないのです。好きなことを一生懸命やっていた方が、後々良いような気もしますね。
好きなことをしている方がいいよねーのその好きなことっていうのが、さっきの一般意志というかヘーゲルの即時と対他と対峙に近い部分もあり、好きなことやっていたら、だんだん自分の好きが他人の好きにもなっていき、逆もまた然りということですよね。
【 牧野先生 】
そうそう、だから、自分が好きなことだと思っていることは、社会を取り込んで好きなことになっているはずですよね。だからこそ、好きなことを突き詰めると、人とつながるところができてくるのだと思います。
その好きなことが大事だよね、というときのその表現のニュアンスのさじ加減が結構難しいなと思うんです。YouTuberとかSNSのヒーローたちが、「俺たち好きなことで生きてます!みんなも俺に続け!」みたいなことサラッというじゃないですか。それには、どことなく腹落ちがしない感覚もあるんです。牧野先生もみんなでつながろうぜとはいわないけど、孤立はいかんと言うじゃないですか。そのあたりのディテールを感じとれる感性って大事だなと思うんです。
【 牧野先生 】
YouTuberも売れてるYouTuberと売れないYouTuberがいると思います。売れてるYouTuberって、やっぱりみんなの気持ちをちゃんと反映していますよね。その本人は意識していなくても。本人が突き詰めていって、そういう風にやっているというのは、社会のあり方が反映されて出ているのであって、勘違いしているYouTuberは売れませんよね。さっき言っていた、みんなで会ってワークショップでもやろうというのは、そこだと思うんです。
なるほど。なんか牧野先生とお話をしていると楽しいなと思える理由が薄ぼんやりと見えてきたんですが、教育を目的的に語るか、教育を手段的に語るかって、ぜんぜん違うんだなと思って、公民館も同じだなと思うんです。教えたい!ってことを目的にするんじゃなくて、教育を通してどんな社会とかどんな地域を考えていけるのかみたいな議論の方がやっぱり盛り上がりますよね。公民館の場合も、公民館を守るぞみたいな温度感で来られると、べつにそれはどうでもいいんだけどなと思っちゃいますが、公民館をとおしてどういう社会やどういうことが考えられるのかっていう議論になってくるとやっぱり、おーーってなってきます。そもそも学ぶこともそうですが、教えることも快楽がありますよね。教えることが目的になってしまう側面があるというか。
教えることの快楽との付き合い方
【 西山さん 】
公民館も似てるんですが、自分だけが知っていると思っちゃっていることを教え育むってことに心地よさがあって、それはなかなかやめられないですよね。公民館の講座主義というのが、その最たるものです。こんな講座を聞いてもらいたいみたいなのは、ネットも含めて、世の中にいろんな講座が山ほど転がっているので、そっちを聞いてもらえればいいんだと思います。が、そういう講座を企画して、きょうの話おもしろかったでしょというのが、多い気がしますね。それは、公民館や社会教育が本来的に目指すべき、間接的な社会形成につながっていかないのではないかと思います。ただ、生徒や学生にいうこと聞かせて、教えるみたいなことが好きな人が多いですよね。
さっきの牧野先生の、操作可能性みたいな話ですよね。操作することとか、思いどおりにできたときとかって、気持ちいいからじゃないですか。学ぶことで得られる快楽よりも教え育むことで得られる快楽の方が、案外デカいんじゃないかと思っちゃわないでもないです。俺色に染めるみたいな。
【 西山さん 】
そういうの、ホントやめた方がいいですね。繁多川公民館の南さんを見ていて、いつも、無意味なことへの向き合い方が上手だなと思っています。彼はそんな風に考えていないかもしれないですが、公民館や社会教育や繁多川という地域のためにどんなおもしろいことができるのかなって、そういうようなアンテナが立っているように見えています。老若男女を問わず、多様な人たちがいろんなものを投げ込んでも、南さんがすばやくキャッチできるのは、そういうアンテナがいつも立っているからだと思いますね。南さんは一見、ぼんやりしてそうに見えるのに、いろんなものをつなげて、時にはプロジェクト化していったり、行政にもの申したり、メディアをうまく使ったりできるのは、やっぱり、そういうことが根底にあるからじゃないでしょうか。アンテナが立っていない人が見たり聞いたりすると無意味だと思っちゃうことも、意味があることに変えていけるチカラがありますよね。バランスの取り方が上手ともいえます。再現性が低いことですね、これは(笑。
無意味に耐えるというか。南さんは、即興劇のように偶然をつねに受け止めるアンテナ、ビンビンですよね。会議してても、たまたま公民館にやってきた人たちが挨拶したり会話に割って入ってきたり、めっちゃします(笑。
【 西山さん 】
繁多川なんかいっしょに歩いちゃたら、前に進まないですよ。
社会教育を担う人材はどのように育まれるのか
あれが街の中の即興演劇というか、正しい公民館のすがたですよね。さっき牧野先生がいっていた、教育ってそもそも何なの?というのが気になってきます。幅広くそういった即興的なことを学びと考えると、人材の「教育」ってどう捉えたらいいんでしょうか?極論いっちゃうと、即興演劇をやっている人が研修も受けないでボッコンボッコン、公民館の館長に突っ込まれたらいいんじゃないの?とか思っちゃったりもします。でも、それってなんだか学びを放棄してしまっている感じもありますね。かといって、研修講座をやれば、良い人材が育まれるというとそういう単純な話ではないですよね。
【 西山さん 】
社会教育や公民館の人材をどう育てていくのかという視点ですよね。
はい。南さんとか、若狭公民館の宮城さんとか、どうしても先進事例として目立ってくると外からはどうしてもあの二人だからできるんでしょって言われてしまうという点もあるじゃないですか。それは公民館に限らず他の分野でも多くみられることだと思いますが。
【 西山さん 】
社会教育や公民館の人材をどう育てていくのかというその二人は、業界の外からひょっこりやってきたというのも大きいですよ。そもそも。純粋培養ではないというか、業界どっぷりじゃないという意味でも。業界って、どこにあるのわかんないですけどね(笑。視点ですよね。
業界が、その業界の人をどう育てるか、あるいはその必要があるのか、というのは大きな問いですよね。例えば、美大をでないとアーティストになれないのかというとそういうわけでもないような気もしますし、そもそも生き方が面白くないと作品が面白くならないような気もします。
【 西山さん 】
お金がなくなるまで、外で飲んできなさいみたいな。
【 牧野先生 】
基本的な知識とかは当然あるので、それを知ってもらうことは必要だと思いますが、あとは何なのでしょうね。現場で、ということじゃないですか。現場でいろんな実践をやっていておもしろいと思うのは、百戦錬磨のおばさんたちですね。むかし、PTAの役員なんかをやっていたりする経験豊かな人たちは、いろんな人脈をもっている人たちなので、いっしょに何かをやると、お節介も含めて動いてくれたりやってくれますね。加えて、そういう人たちの他人への接近力みたいなものは強いです。
人との距離感の詰め方とかですか?
【 牧野先生 】
すぐ誰かを使っちゃうとか(笑。「あなた、これやっといて」と、すぐやらせちゃったりしちゃいますよね。ああいうチカラって、すごいですよ。ああいうことが必要なのでしょうね。
ああ、分かります!それに揉まれておくということですね。
【 牧野先生 】
そう。それで、そういう人たちって、悪気がある訳でも嫌味がある訳でもないので、こき使われる側も嫌な思いをしないですよ。やれば褒めてくれるし、「すごいですね」とか「ありがとう」といってくれますね。現場でそういったことを学んでいくということじゃないですかね。スキルとかではなく、自分の態度みたいなカタチで身につけていくようなことです。
それって、人間観とか学習観ですよね。先生の本を読んでいても、思っちゃうんですよ、そういう風に。哲学というは、そもそもそういう営みの中で役立つものでもあるような気もします。公民館での活きる能力を体得していくためには、研修とか教育ではなく、人間観とか人間力を耕していくってことだと思っちゃいます。ちなみに、牧野先生がいま書いている本とリンクさせて考えると、「操作性」を批判した先にあるのは、思い通りにならないことを楽しめるかどうか、やりくりできるかどうかみたいな話になってくるんですか?
再現性がないから学問ではないと言われてきた社会教育の可能性
【 牧野先生 】
学校教育って、一面では国民形成という名の下に、資本主義社会の市場をつくっていくことと国家をつくることの2つの役割があって、労働力を養成しつつ消費者を育成していって、それが市場をつくって、また国民として形成されて、国をつくるようにしていくという、まあ、一律の組織やシステムです。社会教育は、そこからこぼれ落ちてしまった人と向き合いながら、元に戻していこうとするのだけど、それって、再現性がないのです。学校は、子どもたちを日常生活から切り離した空間と時間の中に置いて、画一的な教育を行う場所なのですが、社会教育が相手にするのは、日常で汗まみれになって生活を維持している、一人ひとり異なる人々なのです。ですから、そこには統一的な方法論がありません。学校教育であれば、教育方法という学問がありますね。社会教育には社会教育方法論なんてもんはないんです。それぞれの状況が異なるために、個別性が高いんです。だから、事前に学んでいこうと思っても、公民館ではどんな人に会うのかわからないので、想定できません。行ってみて、あーこんな人だったんだと思いながら、どうしようかなと悩んで、動きはじめるのが社会教育なのです。それぞれの人を何とかしなければいけなくて、あり方としては、こぼれてしまった人たちをもう一度社会に戻すということなのだけど、全部一回性なのです。私たちが学生や院生の頃は、社会教育は一回性を相手にしているので、学問ではないといわれ続けていたのですが、いまはそんなことを重ねていくことによって、社会の構造が見えるようにもなってくるところが少し見直されているのかもしれません。
【 西山さん 】
社会教育や公民館の人材育成をどうしていくのか問題に戻すと、一回性や個別性が高いが故に、公民館を取り巻く状況には一定の社会的な経験値をもった人でないとそもそも向き合えない問題が横たわっているんでしょうね。奇跡的な天性のセンスをもっていない限りにおいては。だから、講座やっときゃいいだろとなって、講座至上主義に知らず知らずのうちになっていくのでしょうね。
公民館の仕事は、講座をやっておけば終わりというわけではないということですよね。再現性という意味では、みんなにおしなべて一律的な対応、つまり再現性がある対応をするというのは、ある意味で言うと平等という話にもなってくる気がしますが、そこだけの話を膨らましすぎると、何のための一律的な対応なのかもよく分からなくなってきます。それに、一律的な対応だけをする場所ではないはずですよね、公民館は。
【 西山さん 】
自分を出すということをよしとされないってことですよね。いっつも他人事で話を聞いているような感じがでちゃっています、そういう現場は。そういう公民館のカウンターにいくと、透明人間と話をしているんじゃないかという疑問すら湧いてきますよ。
ご本人もなかなかにつらいんじゃないですかね、そういう状況って。
【 西山さん 】
そうやって先輩から教え育まれてきましたからね。
【 牧野先生 】
いまの社会全体がそうですよ。つまり、行政サービスを提供するということになっているからです。だから、サービスくれよってなるのは当然のことになりますね。教育もそうです。教育をサービスと捉えると、保護者はお客さんになるので、いまのような状況になるんですよ。
みんながくれくれ言う状況はやっぱり健全じゃないですよね。
【 牧野先生 】
みんながみんなサービスを受ける消費者になってしまったら、社会が終わってしまいます。税金を払っているのは、サービスを受けるためではないですが、そんなことを現場でいうと、なに言ってんだって話にしかならないですよね。
先生が話していた基盤ということが、あー、ホントそうだよなーと思えた見晴らしが晴れるキーワードの1つだったんですね。で、社会の基盤がなくなるというのは、つまりそういうことですよね。みんな基盤の上にのっているソフトというかアプリの話しかしないし、良いアプリをくれくれと言う社会であると。先生と話をしているとワクワクもしますが、暗い気持ちにもなります(笑。
【 牧野先生 】
基本的には暗い気持ちになりますよね。こんな社会になっちゃっている要因自体は暗いことなので、ちゃんとそのことをいった上でしか、やっぱり未来は考えられないじゃないですか。
暗い社会をひらく突破口の1つとしての公民館
公民館は、その状況を突破するための一つになりえると考えておいていいんですよね?
【 牧野先生 】
はい。条例公民館も可能性はあると思いますが、公民館「的な」拠点もつかっちゃおうというスタンスでどんどんやった方がいいんじゃないでしょうか。でも、学会的な感覚では、条例公民館以外は公民館ではないみたいな議論になりますが、そんなことは地域からすると、とくに住民の生活においてはどうでもいいことですよね。条例公民館がないところもたくさんあるのですから。
実際に、施設公民館のような場所は結構増えてきていますからね。ちなみにさっきの、こぼれ落ちてしまった人たちを戻していく議論って、ある意味でセイフティネットですよね?社会福祉的な位置付けで社会教育を捉えることができるってことですか。
【 牧野先生 】
そもそも、1922-23年ごろの大正期に社会教育が行政用語になったのですが、それ以前から社会教育は学校教育が取りこぼしてきたことを拾っていくという役割でした。学校教育は社会を中心化するのですが、中心化していく過程で人々がボロボロといっぱいこぼれ落ちていくので、それを拾い上げるのが社会教育でした。
権力の維持装置としての教育ってのもあるよねってことでもあり、逆に権力の維持装置ではない社会教育のあり方もあったんじゃないかって、先生書かれていますよね?戻す先の社会というものは、もちろん1つではないというニュアンスだったと思うんですが。
【 牧野先生 】
戦前までは、小学校を終えて就職しなければいけなかったり、失業してしまったときには、実業補修学校というのがあって、職業訓練を受けて、社会にもう一度位置付けられる場がありました。ある意味で生活保障の側面を持ちながら、村の青年団とか自治組織的なものにも関わりがあって、そこでがんばっちゃおうぜという人たちもいたのです。戦前も田舎の青年団に居た人たちなどは、じつは国家中央には反発していたのです。おもしろいのは、戦前は反政府なのに親天皇って人がいっぱいいたのですよ(笑。彼らの思想というのは思い出は、天皇とつながることで、反中央権力となる、つまり地方の地場の生活と天皇がつながることで、中央を挟み撃ちするということなのです。なので、昔の地方はかなり自治的に動いていました。そういう地方の自立性が、工業社会の到来で、皆が東京一極集中の動きの中に巻き込まれていくことで、機能しなくなってしまったのではないかと思いますね。
ああ、だからこそ、先生がおっしゃる小さな社会をたくさんつくる必要性という話につながってくるんですね。なんか今日もあっという間に時間が経ってしまいました。最後になっちゃいましたが、牧野先生が執筆途中の本、とても楽しみしています。そして、我々も本づくりのラストスパート引き続きがんばります。ぜひ、また雑談させてください!