公民館のしあさって
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talk event 「しあさっての公民館を語る会」レポート_02

talk event 「しあさっての公民館を語る会」レポート_02


日程:2021.03.14.

会場:繁多川公民館

スピーカー:牧野篤 (東京大学大学院教育学研究科・教授)

ゲスト:南信乃介 (那覇市繫多川公民館・館長) 、小林未歩・山田沙紀(愛と希望の共同売店プロジェクト)、山道拓人・千葉元生(ツバメアーキテクツ

進行:熊井晃史


公民館のロビーでは伝書鳩が飛びまくっている

【 那覇市繫多川公民館・南さん 】

ロビーのたまたま具合で考えてみると、繁多川公民館では伝書鳩が飛びまくっているねとよくいわれますね(笑)。

ものすごい素敵な表現ですね。でも、伝書鳩が飛びまくっているって、どういう状況ですか(笑)。

【 那覇市繫多川公民館・南さん 】

例えば、朝の公民館のミーティングで、きょうはあの人に会いたいよね、という話が出たりしますよね。そうすると、だいたいその人が公民館に来てくれたりします。人に関係ないことでいっても、甘いものが食べたいなとひとりごとのように話をしていると、誰かが差し入れてくれたり甘いものが向こうからやって来たりします(笑)。

こんなことやりたいなと公民館のミーティングで共有しておくと、スタッフの誰かがアンテナでちゃんとキャッチしてくれていて、呼び込んじゃうんだと思います。そうすると、ロビーで打ち合わせをしていたりすると、サークルの帰り道にロビーを通りがかって、そういえばこのことはあの人が詳しいねという人にたまたま出会っちゃったりするんです。

実際に目の前で起こるマッチングもロビーでは日常茶飯事ですね。あるいは、いろんな世代がさまざまな目的でロビーにふらふらとやってきていて、公民館のスタッフがつなぎたいと思っている人同士が同じ時間に来てしまって、ロビーでたまたま会ってしまうなんてことが起こります。それは、公民館の中だけに留まらず、地域と公民館で噂が行き交っていきます。だいたい、いい意味で話が大きくなって、公民館に帰ってくることが多いように思います。たまたまの連鎖ともいえます。

繁多川公民館のスタッフの方がめっちゃ頷いていますね。そのあたりは言語化が難しいので、マニュアルにできないですよね。ポジティブな噂話をするようにしなさいという指示を出すのも、ぜんぜん違うじゃないですか。スタッフの方の育成や共有といったものはどうされているんですか。

【 那覇市繫多川公民館・南さん 】

ホントですね。わたしたちもこんなことを大事にしたいね、とか、今後こういうことができたらおもしろそうだね、といったことを漠然とした方向性だけをスタッフとミーティングなどで共有しておくに留めています。エピソードや人柄を分かり合えたり共有できたりしているので、そんな方向性だけを握りあっておくだけで、イメージが結びついちゃうのかなと思います。

ゆるやかに前提と見通しを共有しておけば、いろんなことがわかりあえちゃうんですね。

【 那覇市繫多川公民館 南さん 】
もっというと、きょう来ている方でも日常的に公民館に来館している人も多いですが、繁多川公民館のスタッフのだれかにいっておけば、必要な人にちゃんと伝わっていくと思ってくださっているんですよね。だから色んなスタッフに話がいきつつ、スタッフ同士で結果的にチカラを合わせられるんです。


今のお話って、牧野先生がおっしゃっていた、アタマが後にくるという文脈につながってくると思うのですが、カラダを先に入れて、後からアタマが意味づけしたり、仕事の中での位置付けをしたりするよねってことだと思います。いわゆる普通の学びというときに、アタマできょうの学びのねらいはこうですみたいなことは、学校ではよく行われていると思うのですが、このあたりはどうでしょうか。

【 牧野先生 】

ですから、学びってお勉強ではないんですよ。お勉強っていうのは、決まっていたりわかっていることを身につけることとここでは仮定すると、学びはわからないことを考え続けると想定できるわけです。わからないことを探求しつづけるプロセス全体のことを学びというのではないでしょうか。そう捉えておかないとおかしくなっちゃいますよね。

学校はわかっていること、例えばわたしが知っている知識をそれを知らない学生に教えるところです。本当の学びは、自分が日々新しくなっていくことや変わり続けていくプロセス全体であり、その変わり続けていくこと自体を感受するといいますか、感じとって嬉しく思ったり気持ちよくなったり、愉快に思ったりしながら自分が変わり続けていくことをたのしめることなのではないでしょうか。学びの目的はありません。

学びはプロセスであり続けるということですね。


公民館における学びとはなんなのか?

【 牧野先生 】

ある意味、学びのプロセスといったことが、目的なのかもしれません。なので、公民館の学びって、いったいなんなのという話につながってきますね。

そういう学びの捉え方は牧野先生の本にも取り上げられていますよね。えーと、ただですね、プロセスそのものを目的に学びを意味付けている人は少ないと思うんです。学校の先生も公民館や社会教育の関係者含めてです。常に変わりゆくプロセスが学びであるという動的な捉え方は、あんまり一般的ではないかと思うのですが。なぜこのような状況になっているんでしょうか。

【 牧野先生 】

例えば、近代社会というか工業社会に入って、みんなが同じように労働力となり購買力となり、みんなが同じような生活をすることがよいことだという社会に入ってきて、知識をちゃんと伝達して同じような生活ができるようになることが学校教育の枠組みなんですよね。

大量生産、大量消費の枠組みと一緒ですよね。

【 牧野先生 】

だけど、いい面もあります。子どもたちはある意味で等しく同じ存在なので、同じ教育を受ければ、同じように勉強して知識を身につけて、同じように知能が高まっていくといったことを前提につくられてきた教育制度です。そこでは、個人個人が違ったことを探求していくというよりも、同じような心理になっていくことが求められていました。

機会の均等ということにおいては、ポジティブですね。

【 牧野先生 】

とてもいい話なんです。そうしたいい面がある一方で、個人の違いを認めない資質的にはみな同じなんだということなので、同じ質をもっているからこそ、ひとつの尺度で比べることができて序列化できるという話になっています。序列化は勉強すれば、上に登れると仮定していますし、そのこと自体が学校教育の神話なので、頑張れば上に登れるということで、学校の先生たちは子どもたちを頑張らせることが好きになりますね。

そうですね。例えば、合唱コンクールといった特別活動も、先生の威信をかけて頑張りすぎてしまうこともあると思います(笑)。

【 牧野先生 】

でも頑張ると、上に登れることも確かなので、頑張ることがいいことだと思われていたのですが、結果的には、わかっていることを勉強して身につけて、そのことをはきだして点数をつけて序列化していくことが、基本的な仕組みなんです。だから一面ではいいことなんですが、もう一面で、みんな同じように扱えるので、序列化してしまい、個性は問われません。そういう仕組みができあがっている中で、こうしなきゃいけないというべき論でつくられるので、動的じゃなくなりますね。

こうしなきゃいけないということが決まっているので、それができたかできてないかで判断するわけですよね。知識情報を教えられるので、そのことを覚えているかなとチェックできるようになると。

【 牧野先生 】

外から枠付するということです。教えるときに、ルールがあって教えるので、身のこなしも決まってくるんです。

身のこなし、統一的になっていきますよね。私の娘が不登校気味になって、学校に保護者として行ってみました。そうすると、学校では手の挙げ方とかみんな同じなのに驚きました。身体が矯正されてくる感じとかだいじょうぶなのか、と心配になるのも正直なところです。

【 牧野先生 】

そういう時代ではなくなりましたよね。批判されることも多いですが、国の政策として、知識だけを問うのではなく、生きるチカラであったり、関心・意欲・態度っていうことを評価しましょうといっちゃいました。それは、とっても曖昧なんですよ。どうであったら子どもたちの学びに向かう態度がよくなったのかは測れませんよね。

内面が測れないので、顔に表情が現れにくい子どもがいたとすると、どうするのかと思っちゃいますね。ポーカーフェースでも、内面では学びに向かう気持ちが燃えたぎっているかもしれませんし。

【 牧野先生 】

そういうこともありますが、そこを本人の個性など曖昧なものを評価してあげなさいねという政策が採られました。結果的に何が起こったかというと、関心があるとか強い意欲を持っていることを示すために「ハイハイ」と手を挙げたりしなさいと塾で指導されたりするようになりましたね。そうした行為は、わかりやすく積極的に見えるようになります。ハイハイと手を挙げる子どもたちが積極的だという評価を受けるようになるので、関心・意欲・態度までもが序列化が可能になるような仕組みになっちゃったんです。

いやはや。

【 牧野先生 】

ホントはそうした考え方をちょっと横にズラして、多様なものなのだから、ひとりひとり違うことをあたりまえのこととして、黙っていてわかんなそうな顔をしている子どももさまざまな可能性を持っているかもしれないという前提に立って、学校を変えていきましょうという議論につなげるつもりがあったはずなんです。いまの学習指導要領もそうなっています。でも、そうはならないんですよ。やっぱり評価しなきゃいけないとか、序列化しなきゃいけない、点数つけなきゃいけないとなっているのが、現状です。完全にお勉強の世界ですね。社会に出て、会社に入ってもつながりますよね、そうしたことは。

そうやって考えていくと、公民館はそうではない方向にいった方がいいんじゃないかという議論になってくるかと思われます。そんな道筋の中で、公民館の意義や可能性が浮かび上がってくるかもしれません。動的なプロセスが学びであるという考え方の中で、そのあたり、どのように思っていますか。


学校は失敗しちゃいけないけど、公民館はいくらでも失敗ができる

【 牧野先生 】

公民館で、このあいだ子どもにいわれたんです。学校は失敗しちゃいけないけど、公民館はいくらでも失敗できると。みんな、学校には強い強迫観念をもっていて、失敗しちゃいけないと思われてますよね。

ああ。忘れ物しただけで、だけと言えばだけなんですが、そうは思えず、パニックになってしまう子どもたちもいると思います。

【 牧野先生 】

社会に出ても、いくらでも失敗すればいいじゃないと思っていますよね。だけど、子どもたちは、学校で失敗しちゃいけない、成績ついちゃうとか序列化されると思っちゃってます。それもいまは、すべて自己責任ということに帰結してしまいます。本人が悪いと。さらに、忘れ物ひとつしただけで、人格的に劣っているんだと思われてしまうんじゃないかという強迫観念がありますね。

ああ、強迫観念あると思います。

【 牧野先生 】

だけど、公民館に来ると、忘れ物をしてもしょうがないなーといってくれるんです。失敗が何度もできるということと、たまたまが公民館にはありますね。

たまたまさというニュアンスでいうと、公民館ではそもそも失敗が失敗でなくなりますね。お勉強と学びは違うと。学びというのはいろいろの関係性を結びながら、さまざまな現象が起こっていくカタチだと思います。

牧野先生の本でも、人やものと関係性を結んでから気持ちが湧いてくるという、表現があって、目から鱗でした。というのも、気持ちがまずあって、ひとと関係性を結ぶと思っちゃいがちですが、南さんと関係性を結んでから公民館により興味が湧くとか、順番って、いろいろあるよねと思いました。とてもおもしろかったです。

【 牧野先生 】

今日、熊井さんは、たまたまにはまっちゃったんですよね(笑)。たまたまが、たまたまなだけに。

ええ、たまたまですね(笑)。

【 牧野先生 】

わたしたちは、自分たちで選んだつもりになっているけれども、選ばされているというところがあるんですね。心地よく巻き込まれていき、たまたまそこにいる状況が生まれていくという関係性、セレンディピティということです。学びに話を戻すと、雑談し続けるといいますか、あーでもないこーでもないという雑談をしている中で、あ、自分はこういうことを考えていたんだなとふと思いがけず気づきがあったりしますよね。雑談という関係をつくられちゃっている上に、自分を発見しながら、新しくなっていくということが出てきます。はまると大変なことになるんじゃないかなと思うんですが、毎度毎度、あたらしい自分が出てきてしまうので、あとから追っかけてアタマで認識しなくちゃいけなくなって、自分が大変になりますよね。

なるほど、大変ですね。自分を毎々位置付けていかないと、アイデンティティクライシスというか、自己が崩壊していく感じもありますね。

【 牧野先生 】

ええ。でも、アイデンティティって、必要ですか(笑)

なるほど。自分の存在を、ひとつのアイデンティティに無理にまとめあげなくてもいいのかもしれませんね。

【 牧野先生 】

わたしというのはこういう人間なのだ、と強く思いすぎていると、たまたまには出会えませんね。

ああ!すげーわかります!

【 牧野先生 】

逆にいうと、ちゃらんぽらんな方がいいと思いますね。いい意味でちゃらんぽらんになると、きょうはこれでいいやとなったりします。新しい自分が次々に出てくることへの快感に身を任せるようになれるのだと思っています。たのしいですよね。わたしはこうじゃなきゃいけないと思い込んでしまうと、そうじゃない自分が出てくると許せなくなっちゃったりします。そういうことでダメになっちゃう人はけっこういますね。暇と退屈が大敵なんです。


【 牧野先生 】

はい。たまたま居合わせた誰かと一緒にやる、ということを書いたと思います。居合わせたわたしみたいなことですね。それって、結局、わたしたちはアタマで考えて判断して行動していると思い込んでいるんですが、アタマってあとからくるんです。やってみた後でしか、何をやったのかがわからないはずなんです。なので、たまたま巻き込まれることや関係などが成立していく状況というのは、アタマで考えるというより、その場で見えないチカラに引っ張られちゃうという感覚が近いのかなと思います。結果として、たまたまが動いていくのではないかと。あとからアタマがついてくるので、たまたま動いちゃったあとに、こういうことを自分はやったんだと認識できるのでしょうね。幸運の女神には後ろ髪がないとよくいいますよね。

え、よくいうんですか?(笑)

【 牧野先生 】

ええ、よくいいますよ(笑)。なので、幸運の女神が現れた瞬間に直感的に行動しないとことは動かないのです。後ろ髪がないので、アタマで考えていては、幸運の女神は通り過ぎていきますね。少しむずかしい言い方になってしまいますが、アフォーダンスにつながってきます。

建築的なテーマともなってきますね。

【 牧野先生 】

生態心理学のジェームズ・ギブソンがいっていることですが、アフォーダンスは、もともとはアーキテクチャーというものがあって、空間をつくると、空間に基づいて自分たちの行動を決めてしまうといった考え方ですね。例えば、イスがあって、背もたれなんかがあると、ついついもたれかかってしまったりしますが、そうした環境がもたらす情報で、その人の行動を制御することになります。

人間の行動がある種、環境依存といいますか、環境とのインタラクションがあるんですよね。

【 牧野先生 】

そう、インタラクションがある訳です。もうひとつアフォーダンスは、さらに進めて考えていくと、わたしたちは空間を見ているんだけれども、遠くは遠くで、近くは近くだというのは、わたしたちは網膜に映った画像を平面錯視で捉えていると習いましたね。しかし、どうやら、最近はそうではないのかもしれないといわれてきています。

えー、そうなんですか!

【 牧野先生 】

簡単にいうと、空間の光の肌理みたいなところを読み取っていて、肌理が細かいか荒いかなどで遠近感を掴んでいるのではないかと考えられています。たった3センチしかない眼球で、錯視ができるのか、ぼやっとしか映ってないものを脳で処理している訳ですから、そんなことできるのかというと、どうもそうではないようです。例えば、目とか、いろんな受容器から入ってくる情報を感じとって、まっすぐ立てているといったことをアフォードされている、環境から情報が与えられているといった見方もあるんですよ。わたしたちは立っているというのですが、立つようにアフォードされているともいえますね。

立たされているとも考えられますね。

【 牧野先生 】

はい。立たされているといった感じになっています。そういう風に見ていくと、たまたまということも、たまたまそうなったけれども、自分で選んだというよりもむしろ選ばされてしまっているという方が正しいのかもしれません。選ばされてしまっているというのは、完全に受動的なのか受け身なのかというと、そうでもなくて、おもしろそうとか感じながら、自ら引きつけられてしまっているのではないかと思います。そういう関係の中で、たまたまが生まれるのは、簡単にいうと選ばれているんだけど選んでいるというバランスにおいて、いろんな活動が展開していくのは、正しい道を選んだということになるのではないでしょうか。


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